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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [18]




 咄嗟に声をあげようとしたが、軍手をした片方の手で口を押さえられてしまった。そうして、もう片方が振り上げられる。
 え? ナイフ?
 その手がゆっくりと美鶴へ向かって下ろされてきた。本当はあっという間だったのかもしれないが、美鶴にはひどくノロい動作のように見えた。
 胸に、刺される?
 しかし、何もできないままただ相手の動きに目を見張るだけ。
 そんな情けない有様だったから、相手が不意に自分の目の前から消えても、何が起こったのかワケがわからないままだった。
 え? 消えた?
 呆然と、ただ塀に背中を押し付けて立ち竦む。
 何? え? 今の何?
 あまりに一瞬で、何が起こったのかわからない。そんな美鶴の姿に、紫の唇が傍らで溜息をつく。
「いい加減、目ぇ覚ましたら?」
 足元で、コンビニの袋がカサカサと風に揺れている。その傍に転がるのはナイフ。果物ナイフというやつか? そうしてそこからズズッと視線を動かすと、アスファルトの上に蹲る人影。
「アンタ、女ね?」
 ユンミの声に微かに反応するも、思いっきり蹴り飛ばされた背中の痛みがひどいのか、相手は立ち上がる事もできないらしい。なんとか両手を張って逃げ出そうとする背後から、ユンミはその尻を再び蹴り飛ばしてやった。
「キャッ」
 なんとも可愛らしい声と共に、相手は地面にうつ伏せる。
 な、何? 何? ナニ?
 やっとこさ事の重大さに気付きはじめた美鶴。
 私、殺されそうになった?
 そういう経験は残念な事に過去にもあったのだが、今回はナイフを向けられたのかと思うと、背筋がゾッとした。アスファルトに転がる刃物に太陽の日差しが当たり、なんとも不気味にキラリと光る。
 刺されたら、やっぱ痛いんだよね。
 ゴクリと唾をのむ美鶴とは正反対のユンミが、自分の右足をパンパンと払いながら、()(つくば)る相手にゆっくりと近寄る。
「アタシの可愛いベイビーに刃物向けるなんて、いい度胸してんじゃない」
「ゆ、ユンミさん、どうしてココに?」
「タバコが切れたから買いに出ただけよ。偶然って、すごいわねぇ」
 ホントすごい。すごい、すご過ぎるよ。
 呆然と感動する。
 ありがとう、タバコ。これからは少々(けむた)くっても我慢するよ。
 そんな場違いな感動で胸を膨らませる美鶴などお構いなしで、ユンミは相手のすぐそばまで行くと、腰を落とした。相手の襟首を掴み、苦しそうに唸るのも無視してサングラスを叩き落とす。マスクも剥ぎ取る。
「さぁて、どうしようかなぁ?」
「どうにでもしろよ」
 ずいぶんとヤケで挑発的。だが、無理矢理に低く発声しようとしているその声はなんとも可愛らしい。言い方もぎこちなく、まるで迫力がない。そのあまりにアンバランスな相手の言動に、ユンミは目を丸くした。
「はぁ? アンタ何?」
「うるさいっ!」
 思いっきり身を捩るが、ユンミの右手から逃れる事はできない。さらにユンミは片足を相手の背中に乗せ、うつ伏せに押さえ込む。あまりに呆気なく押さえ込まれてしまったが、よくよく見るとこの状況はわからないでもない。ユンミの体格と比べて、相手はあまりに小さい。
 この人、何?
 恐る恐る顔を覗いてみようとする。アスファルトに押し付けられた顔をハッキリと見る事はできないが、どうやら知っている人物ではないようだ。まだ幼い。美鶴と同じ歳か、もっと下かもしれない。
 こ、殺されそうになったんだよね。
 転がるナイフへチラリと視線を投げる。
「け、警察呼ばなきゃ」
 だが、そんな美鶴をユンミが素早く遮る。
「待って」
 空いている片手をあげる。
「とりあえず話を聞くわ。警察は後」
「え? どうして?」
「アタシ、警察って嫌いなのよ。アタシみたいな人間はみんなそうだと思うけど」
 言って、ニヤリと口元を緩める。
「それに、アンタだって警察のお世話にはあんまりなりたくはないんじゃない?」
「え? なんで?」
「唐渓の生徒がこんなところでこんな時間に何やってんだ? って、話が発展するかもよ」
「あ」
 慌てて自分の制服を凝視する。
 それは、ちょっと厄介かも。
 お嬢様学校らしい清楚な制服を軽く摘む。その仕草に、押さえ込まれている相手が忌々(いまいま)しそうな視線を投げた。
「そうだよ、なんで唐渓のクズがこんなところに」
 唐渓の、クズ?
「アンタ、唐渓の事が嫌いなの?」
 他校生から嫌われてもおかしくはないだろうと思われる校風を思い出す。
「嫌い?」
 少女はフンと鼻で笑う。
「あぁ、嫌いだ。大っ嫌いだ」
「へぇ、じゃあ、美鶴にナイフ向けたのは、唐渓の生徒だから?」
「さぁね」
「アンタに黙秘の権限なんてないのよ」
 グイッと首根っこを持ち上げられ、ウゲッと顔に似合わない醜い声が出る。
「アタシたち、警察は嫌いだけど別に(やま)しい生活してるってワケでもないのよ。だから事によっては警察呼んでもかまわない」
「だ、から、呼べばって、言ってん、だろ」
「でも、内容によっては無罪放免にしてあげてもいい」
「ゆ、ユンミさんっ」
「以後、一切美鶴には危害加えないって約束できるんならね」
「へ、そんな約束」
 再び首根っこを捻り上げる。
 見ているこっちが息苦しくなりそう。
 首を絞められ、少女の瞳が充血する。目が潤み、涙が一筋零れる。
「ユンミさん、やめて、死んじゃう」
 アワアワと両手を伸ばす美鶴の言葉に手を緩める。相手は(むせ)びながら地面に突っ伏す。
「さぁ、言ってごらん? なんで美鶴を襲ったの?」
 可愛らしい少女ではあるが、それなりに意地はあるらしい。乱れる呼吸と共にユンミを見上げ、掴まれたままの襟首を気にしながら、周囲へ視線を巡らした。人影は無い。
「ここは普段から人通りが少ないのよねぇ。まぁ、日暮れが近くなればあっちこっちから綺麗なおネエさんが出てはくるんだけれどね。助け呼ぼうなんて考えは持たない方がいいわよ。ムダなだけだから」
 梅雨入りが近くなり、少し蒸すようになった。太陽の光が、少しだけ暑い。
 美鶴は放りだされたコンビニの袋を拾った。だが、喉は渇いているのに、買ってきたパックの紅茶を飲む気にはなれない。
「さぁ、こんなところで死にたくなければ、さっさと吐いちゃいな。ん?」
 言って、三度(みたび)襟首を掴んだ手に力を込めた。
「わ、わかったよ」
 少女の表情が狼狽する。
「そんなに知りたきゃ教えてやるよ」
 言って一拍置き、距離を取って見下ろしている美鶴を見上げた。
「アタシの名前は柴沼(しばぬま)弥耶(やや)。柴沼南菜(なな)はアタシの姉よ」
 柴沼?
 まるで戦国武将が誇らしげに名乗るかのよう。だが美鶴には、申し訳ないがその名前の意味するところがわからない。
 柴沼、弥耶? 南菜? 誰だっけ?
 首を傾げる美鶴を、弥耶は小さな驚きと憤りと、羞恥と侮蔑を込めて睨みつける。
「へぇ、アンタ、唐渓の生徒なのに柴沼の名前を知らないんだ」
 ひょっとして、唐渓でも有名な権力者だとか?







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